LOGIN家に着いた時、リビングの灯りはついていた。
玄関の前で、私は一度だけ深呼吸した。 鍵を開ける。 「ただいま」 声をかけると、リビングから悠斗が出てきた。 「おかえり」 悠斗はもう部屋着に着替えていた。 テーブルの上には、二人分の湯呑みが置かれている。 お茶を淹れてくれていたらしい。 それを見た瞬間、胸が小さく痛んだ。 優しい。 ちゃんと、優しい。 今の悠斗は、本当に変わろうとしている。 それが分かるから、余計につらい。 「お茶、淹れた」 「ありがとう」 私はバッグを置き、買ってきた本それから数日後、書店の掲示板に新しい案内が貼られていた。 仕事帰りに前を通った私は、ほとんど癖のように掲示板へ目を向けた。 児童書フェア。 読書会。 手作り市。 その下に、見慣れない薄い生成り色の紙がある。『小さな器の販売会』 その文字を見た瞬間、足が止まった。 会場は、電車で少し行った場所にある工房。 開催日は来週の土日。 作家さんの名前。 そして小さく、写真展示協力として朝倉蓮の名前があった。 胸が静かに鳴る。 ついに案内が出た。 私は紙に書かれた地図をじっと見た。 知らない駅。 知らない道。 この書店の二階とは違う場所。 少し遠い。 少し緊張する。 でも、行ってみたい。 その気持ちは、前よりはっきりしていた。 私はスマホを取り出し、案内の写真を撮った。 すぐに誰かへ送ろうとして、手を止める。 まず、自分で予定を見よう。 来週の土曜日。 午後なら行ける。 日曜は洗濯と買い物をしたい。 土曜の午前に家のことを済ませて、午後に工房へ行く。 そう考えると、少し現実味が増した。 私はカレンダーを開き、小さく入力した。『器の販売会』 保存する。 それだけで、胸の奥に小さな灯りがともった。◇◇◇◇ 部屋に帰ってから、私は改めて案内の写真を見た。 工房の最寄り駅。 徒歩十分。 住宅街の中にある小さな場所らしい。 販売会といっても、大きなイベントではなさそうだった。 少し不安になる。 一人で行って浮かないだろうか。 詳しくないのに見てもいいのだろうか。 何も買わなかったら悪いだろうか。
展示が終わった翌週、私は仕事帰りに書店の前で足を止めた。 掲示板から、『小さな器と暮らしの写真展』のチラシは外されていた。 そこにあったはずの白い紙。 器の写真。 朝倉さんの名前。 それらがなくなった掲示板は、少しだけ広く見えた。 代わりに貼られているのは、児童書フェアの案内と、地域の読書会の告知。 手作り市の日程。 知らない町の知らない予定。 展示が終わったことは分かっていた。 それでも、実際にチラシがなくなっているのを見ると、胸の奥が少しだけ寂しくなる。 でも、その寂しさは前のように空っぽではなかった。 あの展示で見た写真は、もう私の中にある。 青みのある深皿は、私の食器棚にある。 普通のヨーグルトを入れた。 ブルーベリーをのせた。 かぼちゃも、トマトのマリネも、少し濃くなった茄子の味噌炒めも入れた。 展示は終わった。 でも、そこから持ち帰ったものは、私の普通の日の中で続いている。◇◇◇◇ 店内に入ると、紙とインクの匂いがした。 入口の平台には、前とは違う本が並んでいる。 季節の料理本。 短いエッセイ。 小さな旅の本。 私は棚の間をゆっくり歩いた。 二階にはもう上がらない。 展示室は片づけられているだろう。 白い壁も、今は何も飾られていないかもしれない。 そう思うと少し寂しい。 でも同時に、次の何かを待つ場所でもあるのだと思った。 朝倉さんが言っていた。 写真は、展示が終わると箱に入って次を待つ。 本も待つ。 器も、誰かの家で使われながら時間を重ねる。 終わることは、消えることではない。 次の場所に移ることもある。 私は暮らしの棚の前で足を止めた。 器の本を
朝倉さんと並んで、『余白の席』の前に立った。 前よりも、その沈黙に慣れてきた気がする。 無理に話さなくてもいい。 沈黙が、気まずさではなく、同じものを見ている時間になる。 それが少し不思議で、心地よかった。「展示が終わったら、この写真はどうなるんですか」 私が聞くと、朝倉さんは少し考えた。「一部は作家さんの工房に飾っていただく予定です。あとは、僕の手元に戻ります」「そうなんですね」「写真は、展示が終わると少し静かになります」「静かに?」「はい。壁から外して、箱に入れて、次に出るまで待つので」 その言い方が朝倉さんらしくて、私は少し笑った。「写真も待つんですね」「待ちます」「本みたいですね」「そうかもしれません」 朝倉さんも少し笑う。 写真が箱の中で次を待つ。 器が誰かの家で使われる。 本が読まれる時間を待つ。 そう考えると、物にもそれぞれの居場所と時間があるように思えた。「作家さんの工房って、この近くなんですか?」「電車で少し行ったところです」「工房でも展示があるんですか」「時々、小さな販売会をされています。今回の写真も、その時に何枚か置いていただく予定です」「販売会」 その言葉に、少し心が動いた。 器。 工房。 写真。 今回の展示とは違う場所。 けれど、少しだけ続きのように思える。 朝倉さんは、私の反応に気づいたのか、控えめに言った。「もし興味があれば、書店に案内が出ると思います」「行ってみたいです」 思ったより自然に言えた。 朝倉さんは少しだけ驚いた顔をして、それから嬉しそうに頷いた。「作家さんも喜ぶと思います」「でも、工房って少し緊張します
展示の最終日が近づいていた。 書店の掲示板に貼られたチラシには、いつの間にか小さな紙が重ねられている。『今週末まで』 その文字を見た時、私は少しだけ足を止めた。 終わる。 当たり前のことだった。 展示はずっと続くものではない。 写真も器も、あの白い壁に置かれている時間には限りがある。 それでも、少し寂しかった。 前の写真展も終わった。 そのあとも、私の生活の中には『帰り道の灯り』が残った。 今回の展示もきっと同じだ。 終わっても、器は私の部屋にある。 青みのある深皿は、もう食器棚の白い器の隣が定位置になり始めている。 かぼちゃを入れた。 ヨーグルトを入れた。 少し濃くなった茄子の味噌炒めも入れた。 展示は終わるけれど、そこから連れて帰ったものは、私の普通の日の中に残っていく。 そう思っても、やっぱり少しだけ名残惜しい。 私は掲示板の前で、しばらくチラシを見ていた。◇◇◇◇ 昼休みに、その話を佐伯さんにすると、佐伯さんはあっさり言った。「じゃあ、最後にもう一回行けば?」「行ってもいいんでしょうか」「なんで駄目なの」「何回も行きすぎかなって」「展示って、何回行ってもいいでしょ」 言われてみれば、その通りだった。 でも私はまだ、どこかで考えてしまう。 何度も行ったら、朝倉さんに会いたいだけだと思われるのではないか。 そういう気持ちがないわけではないから、余計に足が止まる。 私が黙っていると、佐伯さんはアイスコーヒーを混ぜながら言った。「会いたいだけだったら駄目なの?」 私は少し驚いて顔を上げた。「え」「もちろん、相手に押しかけたり負担をかけたりするのは違うよ。でも、会えたら嬉しい人がいるから、その場所へ行きたいって
翌日の昼休み、私は森下さんと休憩スペースで一緒になった。 自動販売機の前で森下さんがミルクティーを買い、私は温かい紅茶を選ぶ。「藤崎さん、昨日展示行きました?」 森下さんが何気なく聞いた。「行かなかった」「そうなんですね」「夕飯を作りたくて」 そう答えると、森下さんが少し目を丸くした。「夕飯を作りたくて展示に行かなかったんですか」「うん」「なんか、すごくいいです」「いいの?」「はい。藤崎さんの生活が、展示に勝った日ですね」 思わず笑ってしまった。「勝ち負けなの?」「気分的に」「昨日は茄子を買ったの」「茄子」「悠斗があまり好きじゃなかったから、前はあんまり買わなくて」 名前を出してから、少しだけ胸が痛んだ。 でも、言葉は止まらなかった。「でも昨日は、自分が食べたいなと思って買った」 森下さんは黙って聞いてくれていた。「味噌炒めにしたら少し焦げたけど、おいしかった」「それ、めちゃくちゃいい話です」「茄子が?」「茄子が、というより」 森下さんはミルクティーの缶を両手で持った。「藤崎さんが、自分の食べたいものをちゃんと優先したところが」 胸の奥が、静かに温かくなる。「写真、撮ったんですか?」「撮らなかった」「珍しいですね。最近、器とか花瓶とか撮ってたのに」「うん。誰かに見せる前に、自分で食べたかった」 言ってから、少し照れた。 森下さんは、ふわっと笑った。「それも、すごくいいです」「そう?」「はい。報告するための生活じゃなくて、藤崎さんが生きてる生活って感じがします」 その言葉に、私はしばらく返せなかった。 報告するための生活じゃない。
翌日、私は仕事帰りにスーパーへ寄った。 書店の前を通る道もあったけれど、今日はまっすぐ食材売り場へ向かった。 朝から少し決めていた。 今日は展示に行くかどうかより、まず夕飯をちゃんと作りたい。 誰かに見せるためではなく。 話すためでもなく。 私が食べるための夕飯を。 野菜売り場で、茄子が目に入った。 濃い紫色の皮。 隣にはピーマンと豚こま肉。 味噌炒めにしたらおいしそうだと思った。 でも、悠斗は茄子の食感があまり好きではなかった。 前の部屋で茄子を買う時、私はいつも少し迷っていた。 自分は食べたい。 でも悠斗はあまり進まない。 だったら別の野菜にしよう。 そうやって何度も棚へ戻した。 今日、私は茄子をかごに入れた。 ピーマンも入れる。 豚こま肉も。 それから豆腐と、明日の朝のヨーグルト。 かごの中を見て、少し笑った。 全部、私が食べたいものだった。◇◇◇◇ 部屋に帰ると、いつものように「ただいま」と言った。 薄い青のカーテン。 水色の花瓶。 少し元気をなくした花。 クラゲ。 丸いテーブル。 二脚の椅子。 私は買い物袋をキッチンへ運び、茄子を洗った。 包丁を入れると、白い実が現れる。 輪切りにするか、乱切りにするか迷って、今日は乱切りにした。 料理本には載っていない。 スマホで少し調べようかと思ったけれど、やめた。 多少失敗してもいい。 味噌とみりんと醤油と砂糖。 たぶん、何とかなる。 フライパンに油を引く。 茄子を入れると、じゅっと音がした。 その音が、思っていたより心地よかった。 料理はまだ得意で
私はスマホの画面を見つめたまま固まっていた。『今日はありがとうございました!またみんなで飲みたいです!』 送信者は、『秋山 美咲』。 知らない名前だった。 でも、悠斗のスマホに届いた通知ではない。 私のスマホだ。 私はゆっくり画面を開く。 どうやらメッセージアプリの「知り合いかも」の
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。
食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。 静かだった。 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。 こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。 最近は妙に落ち着かない。